徳川慶喜って何したの?幕末の時代をわかりやすく簡単解説

社会の雑学
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徳川慶喜って何したの?幕末の時代をわかりやすく簡単解説

「徳川慶喜は何した人ですか?」と聞かれて、どれくらいの人が答えられるでしょうか。

「大政奉還は知っていても徳川慶喜は知らない」という人もいるかもしれませんね。

そこで今回は徳川慶喜が生きていた時代について簡単にご紹介していきます。

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徳川慶喜って誰?何した人?

徳川慶喜は他にも3つの名前がある

徳川慶喜は、第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれました。

幼少期の名前は松平七郎麻呂(まつだいら しちろうまろ)でした。

学問や武術が非常に優れていたため、父・徳川斉昭は、他家の養子に出さず手元に置いていました。

そして、父・徳川斉昭から偏諱を頂き、松平昭致(まつだいら あきむね)と名乗るようになりました。
※偏諱(へんき)とは功績のあった人に自分の名を一字与えること

その後、第12代将軍・徳川家慶から「一橋家を相続してほしい」という意向を受けて、一橋家を相続した際に徳川家慶から偏諱を頂き、一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)となりました。

将軍となった際に徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)となったわけです。

日本史上最後の征夷大将軍

征夷大将軍とは

軍を指揮する権限を持ち、天下の政務を執行する武人出身者に与えられる称号です。

つまり政務を執行する武人のことです。

略して将軍とも呼ばれます。
「将軍=征夷大将軍」として捉えてください。

徳川慶喜は、その名の通り徳川家の将軍です。

第15代将軍です。

そして日本史上最後の将軍でもあります。

大政奉還で政権を朝廷に返却

幕府の政治に不満を持った人たちにより、倒幕勢力が出来上がりました。

倒幕勢力によって窮地に追い込まれた幕府は、朝廷(天皇たち)に政権を返却することで、倒幕から逃れました。

これが大政奉還です。

大政奉還やその背景についての詳しい説明は後述します。

退任後は豊かな隠居生活

徳川慶喜は、将軍職を退いた後、静岡県に移住しました。

過去に大御所として政治権力を握った元将軍たちとは違い、政治的野心は全く持たず、豊かな隠居生活を送ったそうです。

写真、狩猟、投網、囲碁、謡曲など趣味に没頭する生活を送りました。

地元の人々からは「ケイキ様」と呼ばれて親しまれたそうです。

徳川慶喜はどんな時代を生きていたの?

徳川慶喜は江戸時代末期に活躍した将軍です。

では江戸時代末期はどのような時代だったのでしょうか。

開国派と攘夷派がいた

江戸時代末期は、開国攘夷かで大きく国が揺れていた時代です。

日本は元々、海外とは遮断された国でした。

しかし、黒船が来航してペリーが「開国して貿易をしましょう」と持ちかけてきました。

圧倒的な軍事力を見せつけるペリーを前にして、幕府は開国をしてしまいました。

そして、
日本は神(天皇)が治める国だから外国人に入れてはいけない
という攘夷派と
開国して他国と貿易しよう
という開国派による対立が起こったのです。

江戸時代末期の出来事

江戸時代末期、つまり幕末の時代には一体どのような出来事があったのでしょうか?

代表的なものをご紹介します。

【黒船来航】開国を迫られ幕府が受け入れる

当時のアメリカは太平洋での捕鯨が活発でした。

鯨を追って日本近海まで来ていたアメリカにとって、日本は非常に有用な拠点になりそうでした。

そこで日本に開国してもらうことで、日本の港を使いたいと考えたのです。

【安政の大獄】反幕府勢力を処刑

開国により、「アメリカとの外交」「反対勢力に対する内政」に困窮した幕府は、大老として井伊直弼(いい なおすけ)を就任させました。

井伊直弼は独裁的な政治をしていました。

  • 外交では朝廷(天皇たち)の許可なしに日米修好通商条約に調印
  • 内政では勝手に徳川慶福を後継者に決める

当時の朝廷では、攘夷派が優勢でした。

そのため、朝廷は井伊直弼の独断による調印を厳しく非難しました。

それに対して、井伊直弼は朝廷と結んで倒幕を狙っているという噂があった一橋派を取り締まり、さらに反幕府勢力を処罰していったのです。

これが安政の大獄です。

「朝廷」と「幕府」の違い

朝廷は天皇を頂点とした公家の政府です。

幕府は将軍を頂点とした武家の政府です。

天皇により将軍は任命されるため、幕府は朝廷よりも下の組織ということになります。

幕府は朝廷の代わりに政治を行う組織ということです。

【桜田門外の変】反幕府勢力に井伊直弼が暗殺される

前述したように、井伊直弼は以下のような勝手な政治を実施していました。

  • 外交では朝廷(天皇たち)の許可なしに日米修好通商条約に調印
  • 内政では勝手に徳川慶福を後継者に決める
  • 「安政の大獄」で反幕府勢力を処罰

特に安政の大獄は大きな反感を買い、水戸浪士ら18名によって井伊直弼は暗殺されたのです。

【公武合体】朝廷と幕府が仲直り

桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、老中首座に任命された安藤信正は朝廷と幕府の関係改善に努めました。

朝廷と幕府が力を合わせて政治を行うことで日本の一致団結を目指したのです。

【尊王攘夷の高まり】公武合体は許せない

公武合体により、「天皇が率いる朝廷」と「将軍が率いる幕府」が合わさりました。

しかし、天皇を絶対と考える人たちにとって、朝廷と幕府が合わさることを許すことはできませんでした。

天皇を敬い、外国人を排除しようという考えが尊王攘夷です。

公武合体が許せず、尊王攘夷を思想としている勢力の活動がより活発になりました。

薩摩藩:公武合体派で攘夷思想(外国人排除)
長州藩:尊王攘夷派で攘夷思想(外国人排除)

【第一次長州征伐】長州藩は降伏、幕府の勝ち

反幕府思想を持っている長州藩は、八月十八日の政変によって京都から追放されました。

追放された長州藩は新撰組の見回りを避けながら会合を開いていました。

そんな中、池田屋事件により、新撰組により長州藩を始め尊王攘夷派が襲われてしまいました。

これに怒った長州藩は、京都を守護する幕府軍へと進軍しました。
これが禁門の変です。

京都を襲われた朝廷は長州藩に怒り、幕府に指示し、第一次長州征伐を実施しました。

尊王攘夷を掲げていた長州藩が天皇から敵視されてしまったわけです。

【薩長同盟】日本は1つになって外国と戦うべきという思想

先ほど説明したように、薩摩藩は公武合体派、長州藩は尊王攘夷派であり、真逆の思想(攘夷という点は一緒)です。

しかし、両者には同盟を結ぶための共通点もありました。

薩摩藩の立場

  • 外国人は排除したい
  • 薩英戦争で外国に大敗した過去を持つ
  • 公武合体は賛成だが、幕府が好き勝手やることには不満
  • 自分たちだけでは幕府を抑える力はない

長州藩の立場

  • 外国人は排除したい
  • 下関戦争で外国に大敗した過去を持つ
  • 公武合体は反対だから倒幕したい
  • 長州藩の力はどんどん弱まっていく

有名な坂本龍馬の活躍もあり、薩長同盟は締結されました。

【第二次長州征伐】薩摩藩が長州藩に加勢し、幕府軍が敗北

幕府は二度目の長州征伐に動きますが、薩摩藩の援助により大量の最新武器を入手できました。

そのため、第二次長州征伐は失敗に終わりました。

これにより、幕府の衰えは明らかとなり、倒幕が一気に現実味を帯びてきました。

【大政奉還】追い込まれた幕府は政権を朝廷に返上

第二次長州征伐の失敗で一気に倒幕の流れがある中、朝廷が倒幕を支持しました。

「公武合体したは良いが、幕府が攘夷に動いてくれる気配がない」
というのが理由です。

これにより、朝廷の後ろ盾を得た薩摩藩や長州藩などの倒幕勢力は、一気に行動に移りました。

大政奉還により、幕府は徳川家の力を維持することを条件に、朝廷に政権を返上しました。

【王政復古の大号令】徳川家に逃げられた倒幕勢力がクーデター

大政奉還により徳川家を攻撃する理由がなくなってしまった倒幕勢力。

徳川家が力を持ってる限り大政奉還は形だけになる
大政奉還を完全に実行するためには徳川家の力をなくさなくては
という考えからクーデターを実行しました。

クーデターには以下の勢力が加担しました。
倒幕を目的とする薩摩藩と長州藩
徳川家の意図を見抜いた岩倉具視ら一部の公家

それが王政復古の大号令です。

王政復古の大号令の内容

  • 幕府から提出された大政奉還を認める
  • 江戸幕府の廃止
  • 摂政・関白の廃止
  • 総裁・議定・参与の役職を創設

摂政や関白などの旧時代の役職をなくし、天皇が中心となれる新しい役職を創設しました。

NHK大河ドラマで徳川慶喜役に草なぎ剛が抜擢

2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』は幕末・明治を舞台としています。

そして徳川慶喜役として草彅剛さんが抜擢されました。


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